黒木研究室
大学では「心理臨床学」を教えていた。「心理臨床学」とは、どのような学問ですかとよく聞かれる。「カウンセリングです」と言うと,多くの人は理解する。この学問に近い領域は医学だ。医学の世界では「医は仁術なり」という格言がある。貝原益軒の『養生訓』の中に次のような言葉がある。
「医は仁術なり。仁愛の心を本とし,人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら養志すべからず。天地の生み育て給える人をすくいたすけ,萬民の生死をつかさどる術なれば,医を民の司命という,きわめて大事の職分なり」と記述されている。(貝原益軒『養生訓・和俗童子訓』(校訂)石川謙.岩波文庫 )
(訳)
「医は仁術である。仁愛(ひとを愛しひとを思いやる)の心を本とし,人と救うことを第一の志とすべきである。自分の利益を中心に考えてはいけない。天命といって,きわめて大切な職分としている。医以外の術がまずいといっても,人命にかかわりないが,医術の良否は人命の生死に関する。ひとを救うはずの術でひとをそこなっては一大事である。学問のできる才能のある人物を選んで医者にすべきであろう」(貝原益軒『養生訓』(訳)伊藤友信.講談社)
この「医」という言葉を「心理臨床」に読みかえれば,臨床系の学問が理解されるのではないだろうか。
「心理臨床は仁術である。仁愛(ひとを愛しひとを思いやる)の心を本とし,人と救うことを第一の志とすべきである。自分の利益を中心に考えてはいけない。天命といって,きわめて大切な職分としている。心理臨床以外の術がまずいといっても,人命にかかわりないが,心理臨床の術の良否は人命の生死に関する。ひとを救うはずの術でひとをそこなっては一大事である。学問(臨床)のできる才能のある人物を選んで臨床心理士にすべきであろう。
現在、大学院(人間科学研究科)で「臨床心理士」を育てる臨床教育に携わってきた。実際に臨床教育を行っていて,頭を抱えることが多かった。知識を教えるだけではなく,院生自身が「自らの心に問いかける作業」が伴うがゆえに,そのような微妙な心の働きを支えるという教育が必要となるからだ。ただ教室で教えて終わりというような質の学問ではない。授業以外に一人ひとりの院生にかなり時間を割く必要がある。また,臨床心理士の資格を取得しても,十分な仕事が得られるとは限らない。臨床心理士が高学歴プアー(貧困)になってはならない。その意味でも教員の責任は大きい。また、2018年から国家資格「公認心理師」が開始することになった。このようなことを考えながら,日々大学院で臨床教育を行っていた。
プロフィール
私は米国のカルフォルニア州立大学(ヘイワード校)の大学院で臨床カウンセリングを専攻し,修士課程を終了しました。帰国後は,精神科クリニックで心理士として勤務したのち,芦屋にて「芦屋心療オフィス」を開設して,心理療法一筋に臨床家としてキャリアを長年積んできました。2002年、大阪経済大学の人間科学部の新設に伴い,臨床心理学領域を創るためのメンバーの一人として赴任しました。臨床心理士養成の大学院人間科学研究科「臨床心理学」専攻を作るのに文科省に何度も足を運び、2006年に修士課程が出来ました。
私は、サンフランシスコ市の対岸にあるバークリー市に住んでいたときにカルフォルニア州立大学(ノースリッジ校)のユング派の分析家の目幸默遷先生 (僧籍をもつ)に出会うことで、ユング心理学と仏教に出会い、人生の転機が訪れました。そして、西洋の知識と東洋の智恵が含まれた最先端の「トランスーパーソナル心理学」に触れることで、自らの心理学の方向が定まったと思います。
帰国してからは、精神科医の神田橋條治先生 に師事し、「心理臨床の本質」を身体感覚をとおして学んできました。教育分析は3名のユング派の先生から受けました。心理臨床では青年から老人までの「成人を対象」に、DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders精神障害の診断と統計マニュアル)の診断基準をベースに、精神科医と連携しながら多くの難治例のクライエントを対象に心理臨床を現在行っています。私の心理臨床の特徴は、西洋心理学に東洋思想を加えることで、「心、身体、魂」をホリスティック(全体的)に捉えた心理臨床です。
研究テーマとしては、「気」をキーワードに心理臨床の新たな「気の心理臨床」の展開、密教の曼荼羅研究とユングのマンダラ理論をつなげる「マンダラ・アートセラピー」の構築、四国の歩き遍路の実践(現在二巡目中)を通しての「遍路セラピー」おける「マインドフルネス」と「スピリチュアリティ」の位置づけです。特に最近は、フィルドワークをするためにアジアの国々によく出かけるので、その地に住む「和僑(積極的に日本を飛び出して他国に住む)」の人達に出会うことが多く、彼・彼女たちのグローバルな生き方に興味を持っています。
気の心理学
日本で心理臨床に関わるときに、「気」の問題を避けてはとおれない。私たちは一日のうちに気という言葉を多く用いて生活をしている。知り合いに会えば、「今日は天気がいいですね」とか「元気ですか」と声をかけ、調子が悪ければ「気分が悪い」とか「病気になった」と言い、他者に対して、「気が合う」とか「気にくわない」と、気という言葉を口にする。気には①身体感覚、②心理的力動、③人間関係の機微、④自然との関わりが含まれている。日常の中で私たちが用いる「気」という言葉は、ある対象に意識を向け、何かを感じたときの状態を表している。これらの言葉の奥に流れる「なんとなく」感じる実体が重要である。この実体を東洋医学では「生命エネルギー」といい、心理臨床学では「無意識の情報」として捉え、宗教では「光」で表し、現代物理学では「波動」として表現している。目には見えないが私たちの身の回りに存在し、流動している気を「いのちの働き」として私は捉えている。
心理臨床の実際において、クライエントとセラピスト、カウンセリング室に流れる(雰囲)気はは、相手を理解するうえで重要な要素になる。気の領域は心理アセスメントにおける非言語的コミュニケーションにあたる。非言語コミュニケーションでは、クライエントの表情、動作、音声、服装など、セラピストに対する印象、好嫌の感情、イメージを通した連想、身体感覚などを問題にする。これらの非言語の奥に潜んでいるのが「気」の領域だと考えればよい。この捉えがたい気の領域を東洋思想、東洋医学、気功学、東洋の身体論から読み解き、心理臨床の実際にいかに取り入れるのかを現在も模索している。
(内経図)
古代中国人は,大自然を身体に取り込み,山水の風景を映し出す身体として,象徴化された「内経図」を描いていた。
研究論文と著書
1気功心理学事始め
2心理臨床における<気>の見立て
3心理臨床から観る道教の「内丹」
4東洋医学における<気>
5東洋における気の思想
6心理臨床における心身一如の視座
7心理臨床に役立つ太極拳
8インタビュー「気」の心理臨床から空海研究へ
9気の心理臨床入門
遍路セラピー
「歩き遍路のすすめ」
筆者は1999年11月から翌年の1月にかけて,2度四国に渡り,区切り打ちで徳島の一国参りを終えた。これが歩き遍路の始まりである。そして,2007年10月に歩き遍路を再開し,再度1番札所の霊山寺(りょうぜんじ)から始め,2008年11月に88番札所大窪寺を打ち,「結願」した。2巡目の歩き遍路は2009年の3月から始め,2018年3月に結願した。一巡目は初めてのことばかりで戸惑ったが,二巡目となると一度歩いた道なので余裕が持てる。それゆえ,二巡目における歩き遍路のリアリティの違いは大きい。
四国遍路は、弘法大師空海への信仰を基にした八十八カ所の札所を巡る円環の修行である。四国四県をつなぐ遍路道は,密教の「胎蔵界曼荼羅」で説かれている「四転説」による4つの道場として位置づけられている。徳島県は「発心の道場」,高知県は「修行の道場」,愛媛県は「菩提の道場」,香川県は「涅槃の道場」として仏道修行の場をめぐる巡礼である
星野(2002)によれば,「巡礼とは日常空間と時間から一時脱却し、非日常時間、空間に滞在し、神聖性に接近し、再び日常時間に復帰する行動で、その過程にはしばしば苦行性を伴う」と定義している。筆者の歩き遍路体験からすると,巡礼の「非日常性」,「苦行性」,「神聖性」の3点は遍路者の心理的側面を理解するのに重要なキーワードである。臨床心理士として,三十年心理臨床を生業としてきた筆者にとって,星野がいう巡礼の定義が心理療法の実践とかなり類似していると考えられる。
文献:星野英紀(2001):『四国偏路の宗教学的研究』.法蔵館
第一番札所霊山寺
パワーポイント「四国遍路の心理学—いのちを生きる心の旅=」
四国遍路の心理臨床学的研究